神社の造りは、本殿の前に拝殿があるものが多い。拝殿から祈願をするため拝殿には、賽銭箱や鈴が置かれる。また、本殿と拝殿とは、何らかの形でつながるように作られている。ところが、清祀殿に来てみると、他の神社と違うことに気づく。本殿と思える祠と拝殿と思える所がつながっていない。賽銭箱も鈴も置かれていない。

清祀殿は神社であり、当然神さまを祭る。清祀殿は拝殿ではないのだ。「神様のいるところ土足はやめて」地元の人が書いた注意書きの大きな看板が目にとまる。

清祀殿という神社は、実は、拝殿と思われている部分が本体なのである。そこには比売神(豊姫)が祭られていると考えられる。奥の祠は天照大神である。清祀とは何か「清いまつりごと」の意味である。720年3面の鏡がここで作られ宇佐神宮に運ばれたという言い伝えがある。今の宇佐神宮の御神体は、鏡ではないが、伊勢神宮や石上神社など御神体を鏡とする神社は数多くある。神聖なものとして、また清浄の象徴として鏡は作られた。その場所が清祀殿なのである。宇佐神宮もかつては御神体を鏡としていたに違いない。御神体の鏡を作っていたので清祀なのである。
このような場所は、「全国でここだけである。」と言い切って良いと思う。しかし、悲しいかな「ただの拝殿」と軽く見てこられたように思う。この神社の特色を地元の人達以外にどれだけの人がご存じだろうか。長光家文書に
一、天照大神社一宇
一、清祀殿一宇
一、神宿殿一宇(御神鏡を安置する場所)
一、勅使殿一宇(朝廷の勅使が宿泊する場所)
一、在庁官人小屋一宇
という御神鏡鋳造当時の清祀殿付近一帯の記載があり、清祀殿については、「屋根は板葺きで、柱は十二本、高さは二十二尺、中はすべて土間で中央には鍛冶床が設けられていた」と注釈がある。現在の清祀殿は明治十三年の建立で、作られた当初のものとは異なるが、千数百年の間、地元の人々によって受け継がれてきたことは間違いない。古宮八幡宮神官であった林家に伝わる「宇佐宮造営日記」等の古文書によると、御神鏡の奉納行事は、歴史の興亡、変転を経て四年から六年ごとなどに変わり八十余度行われたようである。享保八年(1723年)に実施された記録が最後となり、それ以降は、実施されていない。享保年間は、度々飢饉が起こり、そういったことが原因で、中絶したものと思われる。しかし、天照大神社一宇と清祀殿は、地元の信仰の対象として残されてきたのである。
